No.0095

コロナウィルス問題を通じて実感される移動の自由の有難み

ドイツのメルケル首相が、コロナウィルス問題の渦中のドイツで移動制限を導入する際に、東ドイツ出身の彼女にとって移動の自由が「苦労して勝ち取った権利」であること、このような制限は「絶対的に必要な場合にのみ正当化されること」を述べた。これは、移動制限を行うということが彼女にとっていかに苦渋に満ちた決断であるかを示すとともに、人類は本来的には、移動制限を行ってはいけない、という考えを明確に示すものとして注目される。
人間の「自由」には広範な意味が含まれるが、その中でも「移動の自由」がいかに重要かということは、それを空気のように当たり前だと思っている日本人には容易に理解しえないものであろう。罪を犯した際に課される「懲役」や「禁固」の基本的性格は、移動制限に他ならず、そのことを考えても、「移動の自由」を奪うことの重さは誰でも実感できるであろう。
また、よく「不要不急の外出を控えて」などと言われるが、「外出」について、権利的観点から定義を考えていくと、「不要不急」というのは「人権としての外出」の不可欠な構成要素であると思われる。その点から考えても、「不要不急の外出を控えて」という言葉は、ある意味での矛盾を孕んでおり、その一見軽く感じられる言葉の響きの何百倍の重みを有することを、どれだけ多くの人が実感しているだろうか。
今回の緊急事態宣言については、ある程度やむをえないものとはいえ、その導入に踏み切った政治家や感染症の専門家が、「移動の自由」の重要性をどの程度認識していたかは、甚だ疑問である。特に、私が問題視したいのは、政治家が専門家集団の意見を素直に取り入れすぎではないかということだ。専門家は、単純に感染者数を数値的に抑えることしか頭にないため、無邪気に「移動の自由」という政策を薦め、「人権」や「自由」というものを軽視しがちになる。基本的人権を制限する際には、それを人類が勝ち得るまでの歴史的経緯や意味を十分に考慮する必要がある。
だから、このような政策を導入する際には、あくまで専門家の意見は参考程度にして、政治家が独自の観点からその是非を決断しないといけない。あくまでマスコミ報道を通じての情報だが、専門家会議では、1年くらい移動制限を続けるべきだという意見があったという。よく、そんな人権無視のたわごとを平気で言えるものだ。
そんな中で、自粛警察とかいう人たちが跋扈し、歴史や基本的人権に対する自己の浅はかな知識を恥ずかしげもなく露出しながら、他人の自粛の態様に口を挟んでいる。自分が外出自粛をするのは勝手だ。しかし、それを人に対して不必要に強いるのは、人権侵害の疑いがあるほどの愚劣な行為だ。今回の緊急事態宣言に関し、「外出自粛」が、あくまで政府からの「要請」にとどまったことの意味を、日本人はよく考えるべきであろう。

大木 将充