No.0070

「個人」の存在力が「法人」を凌駕する時代に

「法人」は権利能力を認められた法的主体ではあるが、あくまで法的な存在にすぎず、基本的には「個人」の幸福をサポートする人工的かつ副次的な存在であるべきと思われる。
 つまり、「個人」あっての「法人」なのである。それに対し、最近では、「法人」たる企業の規模や存在感が世界的に肥大化し、「国」の規模を超える企業でさえ珍しくなくなっている。その中で、一部の企業がブラック化して個人を搾取するのみならず、多くの企業も最近までサービス残業を許容するなどして個人を従え、個人も積極的に「社畜」化して「法人」に従属・隷属するような例が少なからず見られていた。
 そのような中、SNSが隆盛となったことで、インスタグラマーやYouTuberが出現し、経済や社会に大きな影響を与え始めている。企業も彼らの存在を無視しえなくなり、テレビやネットの広告予算を削ってまで、彼らにマーケティング戦略の一翼を担ってもらう形になってきている。  その意味では、「個人」のネームの認知度が、所属する企業を超える局面が増えているように思われる。そして、構図的には、「法人」の陰に隠れ、本来的には「法人」よりも立場が上であるべきである「個人」が、数百年ぶりに本来の立場を取り返しつつある過程にあるとも考えられる。
 そうであれば、株主資本主義の流れも転換点を迎え、企業部門で拡大しつつあった「利潤」の個人への還流・逆流がこれから不可逆的に進む可能性もあろう。それは、マクロ全体の人件費上昇につながるので、必ずしも株価にはプラスではない。
 一方で、個々の個人が、企業との関係を最大限に合理化して、様々な形で自己の利益を極大化できる局面が有意に高まっている。その意味では、大企業や富裕層に足枷をはめることなく公平な社会に向かう可能性も高まっており、そこには「個人」の復権も含まれる形になるから、心より歓迎すべき事態のように思われる。
 一つだけ難しい問題がある。「国」と「個人」の関係だ。現段階では、「個人」が「国」の存在感や権威を低下させる形で台頭する姿は想像しにくい。しかし、その条件は、着々と強まっているように見える。それは、ある意味で好ましいことではあるが、社会を不安定化させ、「個人」を不幸にしかねない。その意味では、「法人」の弱体化と「国」の弱体化は、安易に同視しえない。しかし、同時並行的に進んでいる。

大木 将充