No.0004

経済学者の実体経済へのアプローチ方法の盲点

自動販売機の機能と限界

飲料の自動販売機にお金を入れると、飲み物が出て来る。この自動販売機は、どのようにコインの真贋を判定しているのか(なお、以下の話は90年代頃の経験に基づくもので、現在は格段に厳格なシステムが搭載されていると思われるので、あくまで参考まで)?
実は、言うまでもないが、自動販売機は、完全にコインの真贋を判定しているとは言えない。正確に言えば、販売機には、正式なコインが持つべき多くの特徴、例えばコインの大きさや形、彫り等がチェックポイントとしてインプットされていて、あくまでそのチェックポイントにおけるチェックで失格とされたコインが、偽者として弾きだされているだけである。磨耗が激しい正式コインが、誤って弾き出されることの理由もここにある。
筆者は、かつて長期信用銀行に勤めていて、その資金調達源である債券現物の真贋システムに少しだけ関わったことがある。そこでの自動真贋機も、上記の販売機と似たシステムをとっていたように記憶している。
ところで、それら機械が正式なコインや債券として認める場合、圧倒的多数のケースが正しいのであるが、稀に人間が一目見ただけで偽者とわかるものがチェックシステムを通過してしまうことがある。これは、自動販売機で言えば、そうしたコインが、チェックポイント以外の点はないがしろにしてはいるものの、販売機のチェックポイントに限って言えば巧みに満たした作りになっているからである。だからこそ、銀行では、機械と人の目の二重チェックをかけるのである。

経済学と自動販売機の類似点…判断を間違うことがある→感覚と仮説の重要性

前置きが長くなったが、私は、経済学者が経済学のフレームワークを通じて経済を分析している姿勢は、この自動販売機によるコインのチェックに非常に似ていると思っている。もちろん、莫大な経済領域を分析するには、特定のモデルと前提の下で、事象を単純化かつ数値化して見るしかない。それだけでも、経済学者は、人類の経済運営に多大な貢献をしていると言え、その日々の努力には基本的には敬服している。しかし、経済学を通じた分析に固執しすぎるが故に、経済学者が見逃していたり、判断を誤ったりしている例も少なからずあると思われる。
例えば、経済学では、過去10年の日本経済を「デフレ」と総括し、少しでも「インフレ」基調になるような経済運営を行っている。しかし、過去10年は本当にデフレなのだろうか?少なくとも、各家計では、通信料金や電気料金は上昇しているはずである。また、電化製品の価格は下がったが、自動車の価格は下がっていない。保険料も、金利低下で上昇しているはずである。もちろん、食料品や日用品などは低下しているのかもしれないが、全体としてデフレという認識がどの程度多くの国民にあるのだろうか。
なぜこのようなことを述べるかというと、リーマンショック後に大幅な円高になったにもかかわらず、わずかなデフレ率にしかならなかったことを、果たしてデフレと呼ぶべきか大いに疑問を感じているからである。エネルギーや食料の海外依存率が高い国である日本で、ドル円が1ドル120円から80円の円高に振れたら、本来はもっときついデフレにならないとおかしいのではないか、そして、このことはアベノミクス前の日本は実は実質的には(為替が不変であったら)インフレ状況にあったのではないか、と感じたのである。ちなみに、ジャーナリスティックな見方を加えると、物価上昇率の計算をデフレ方向に作用させた最大の要因は、実はテレビの価格の下落だったという説もあり、そうであればテレビを買わなかった家計はデフレを感じないことになる。
もちろん、こんな意見は少数派だと思うし、私自身も厳密に分析しているわけではない。しかし、これが仮に少しでも正しいとしたら、アベノミクスによる円安誘導がいかに恐ろしい策かが実感されよう。私は、短期的な視点は別として、中長期的には通貨は強いほうが良いと考えている。これまでの国の興亡の中で、通貨が高くなりすぎて滅びた国というものがあるのであろうか?
筆者は、何事についても、定性分析は欠かすことができないと思っている。アナリスト時代も、何となく感じた問題意識や仮説が、その後の検証で正しかったという例が枚挙に暇がないほど多くあった。然るに現在の経済学は、「分析→判断」というプロセスばかりで、「仮説→分析」という逆のプロセスを欠いているように思う。ケインズとフリードマンが偉すぎるためかもしれないが、いずれにしても、これは、結構恐ろしい。

大木昌光